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YAMASHITA SUMITO

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Last updated 21 days ago

『わたしハ強ク・歌ウ』制作振り返りノート 09

about 1 month ago

 このノートもほぼ連日書いて8回書いた。たかが8回で振り返りがおさまるはずもないが三年書いていたのだから。しかし当初の目的であるコ本やでの連続ゴールデンウィークイベントまでに、は、果たした。 何度も書くがそもそもは編集者イワモトが「編集日誌」を書く予定だった。しかしやつが書かず「書けなかったんです。忙しかったからかしら」とかいい「書いて!かわりに書いて!」といった。 編集者が作家に書け、というときは知らない人はわからないだろうが「仕事」であるから原稿料が発生する。当たり前だ。 しかしこれにはそんなものはない。 書いてよ、で終わりだ。わたしの仁義で成り立っている。そのわりに書いたところでやつからの反応はとくにない。先日会ったら大酒飲んで調子よく酔っ払って、他社の編集者と楽しそうに語らっていた。わたしの肩をバンバン叩いて「ね!ねー!」と何が「ねー」かわからなかったが笑っていた。イワモトの声は弾ける系で、鼓膜に直接当たる。それにやつは水球をやっていたから肩幅が広い。 わたしは酒は飲まない。わたしは空手をやっていたから戦えばいい勝負をするはずだ。 今日は飯田裕子さんが「精読」するらしい。明日は山本浩貴さんと龍村景一さんとわたしとで話す。10日は職人たちが集い話す。わたしはともかくそれぞれ何を話すのか、話されるのか楽しみだ。続きをみる

『わたしハ強ク・歌ウ』制作振り返りノート 08

about 1 month ago

 前回の書き出し。 『アンネの日記』がこの小説に大きな影響を与えていると気がつくのは書いて、書き終えて、しばらく経ってから、というか今もわたしがはっきりとそう自覚しているわけでもない。 何だそれは。 『わたしハ強ク・歌ウ』制作振り返りノート 07続きをみる

『わたしハ強ク・歌ウ』制作振り返りノート 07

about 1 month ago

 『アンネの日記』がこの小説に大きな影響を与えていると気がつくのは書いて、書き終えて、しばらく経ってから、というか今もわたしがはっきりとそう自覚しているわけでもない。 何だそれは。 小説の中にたくさん出てくる「ノート」という言葉が「日記」に重なるとすら思ってなかった。今もピンと来ていない。「ノート」と書いていたのだから「ノート」だ。「日記」なら「日記」と書いていた。これは何か強い何かに思うが、掘り出す気も、押す気もない。日記でいいです。 作者が作品のことを「わかっている」というのは幻想だ。続きをみる

『わたしハ強ク・歌ウ』制作振り返りノート 06

about 1 month ago

 ゴールデンウィークに本作りのチームの本拠地である東京神楽坂にある「コ本や」という場所でイベントをやる。まだ現時点では詳細は出ていないが、あれこれ企画され、間もなく発表される。そう書きつつ今日告知されるといっていたから待っている。されたらリンクするつもりで待っているのだがまだされない。された。続きをみる

『わたしハ強ク・歌ウ』制作振り返りノート 05

about 1 month ago

 「親子が旅をする」が「場」になりはじまったこの小説の冒頭は、当初は「01」がなく「02」からはじまっていた。 もちろん「02」とはせずそれを「第一章」としていた。 本にある「01」はのちに書き足されることになる。 当初の冒頭であった「02」は、本の中ではこうなっている。 前の晩は九時ぐらいに寝て次の日の昼前の十一時すぎにママとママのパパは起きた。すぐに昼になりお腹がすいたので電子レンジで熱くした白米にレトルトカレーをあたためずにかけて食べた。パパは二杯食べたとママは書いていた。クィルは四杯食べて五杯目はがまんしたとママのパパは書いていた。 『わたしハ強ク・歌ウ』・ 「02」冒頭続きをみる

『わたしハ強ク・歌ウ』制作振り返りノート 04

about 1 month ago

 ここ(note)に以前書いて公開していた『わたしの小説のやり方』というのがあったが閉じた。 閉じたのは、「もっと丁寧に書いた方がいい」と思ったからで、手を入れ再び公開しようと思っていた矢先にこれがはじまってしまった。 そこに「場」とわたしが適当に名付けたものについて書いていた。 「場」というのは俳優でいえば「役」みたいなもので、それがあるから動きはじめられる。 しかし「場」については誤解もされた。誤解される程度の書き方だったのだともいえるから一度閉じたのだ。 「場」など関係ない、「役」なんかいらない、そんなものは無しで自由自在動き回るのだ的な誤解。 誤???した人はみんな一度「観客」の前に立ってみたらいい。何だっていい。何だっていいから「他人の前に立って何かしてみる」。何かするためには拠り所がいる。何もなくても「からだ」はいる。からだが拠り所ならそれでいい。「からだ」だけを拠り所にして何かしてみたらいい。座ってさえいられないのがわかるはずだ。困ったぞ、からだを拠り所にするための拠り所がいるぞ、何だなんだ。そのとき召喚されるものがわたしが「場」と呼ぶものだ。 『わたしの小説のやり方』で「場」といういい方をはじめてしたときのものを再掲する。はじめて小説を書こうとしたときのことを書こうとしていた。改行、「」等手を入れた。 とにかく書きはじめてみなければ何もはじまらないので書きはじめてみるのだけど、わたしにはそのとき、というか今も、書こうとするものは小説ではあるが、いわゆる「小説」と呼ばれるものにはならない、なれない、という自覚だけはあった。しないぞ、という自覚といってもいい。 それは劇とほとんど同じだった。わたしは俳優としての訓練はそれなりに受けて来てはいたが、それはたとえば発声。舌の使い方。からだの仕組み、どう動かせるのか、どう動かせば外からどう見えるのか。ダンス。リラクゼーション。思い込み。何千人もの他人の前でひとりよがれる図太い神経。それらイロハを叩き込まれた身体だけを頼りにわたしは劇へ向かった。字も書かずにいた身体で。レンガ職人がその技術しか知らないまま神社を建てるようなものだった。 となればわたしは神社をそれまでのものとは違うものとして考える必要があった。宮大工の技術はないのだそうするしかなかった。神社とは何か。御神体、とは何か。 だからまずは題材は何でもよかった。わたしの思うやり方の「場」にさえそれがなればいい。「場」になるかならないかだけが重要だった。...

『わたしハ強ク・歌ウ???制作振り返りノート 03

about 1 month ago

 イワモトからの言葉を引用し、それがコロナのときで、とわたしは「02」に書いていたのだが、はじめてこの作品について行われたイベント、北海道の札幌市琴似(コトニ)にある「ラボ」(の説明は今はしない)の本拠地レッドベリー・スタジオにおける、イワモトとの刊行前対談『山下澄人によるラボ番外編』によると、「02」に書いたようなやり取りが行われたのは「コロナ前」と話していて、「2019年」と話している。 動画の6分あたりでそういっている。「02」に書いた冒頭は間違えていた。 というかこの回の4分45秒あたりでイワモトは「まだ本にするための企画会議に出していない」といっている。 刊行前の会どころか、刊行されるかどうかわからない段階の会、だったのだこの会は! 思い出したら腹が立つが、だってこのためにあれこれ手配し、東京でではなく、小説の舞台である北海道で、にしよう自腹で、としてやったのだ。本になると思って、本になるからと思って。今腹を立てても仕方がない。それに今のイワモトに腹を立てているわけではない。動画の中の、去年のイワモトに腹を立てている。 ということは書き出したのがその次の年の2020年。2020年といえばその春、夏目漱石『明暗』を読んでいたら黒い便が出て、何だろうと思ううち、立てなくなり、とても変だし病院へ電話して状態を話したら救急車を呼べというから呼んだ。 『明暗』は穴が腸まで届いていると医者にいわれる場面からはじまる小説で、夏目漱石はそれを書いている途中胃潰瘍で死んだ。まさか胃潰瘍だったりして、と思っていたら胃潰瘍だった。死ぬのか。 救急隊員が「昨日(といったように記憶している)子どもが生まれて名前が澄人なんです」といった。「え」とわたしは身を起こして救急隊員の顔を見た。不吉だ。隊員は若い人だった。 死なずに二週間ほど入院している間にコロナの騒動がはじまっていた。 わたしは騒動に乗り遅れた。乗り遅れたまま今に至る。 当時は『FICTION』とタイトルをのちにつけることになる短編集の短編と、『君たちはしかし再び来い』とタイトルをつけることになる短編集の短編のどれかを書いていた時期で、病院でも書いていた。 そのような状態で、イワモトから来た【現実にしっかり生きてる人たちが、世の中の暴力を前にして逃げることなく、でも直接真正面からぶつかることもせず、be...

『わたしハ強ク・歌ウ』制作振り返りノート 02

about 1 month ago

 四年前だから2021年でコロナ騒ぎの真っ只中で、マスクをしていたように思うが思い出せない。用もないのに外に出るなといわれていた頃だったはずだがわたしたちは韓国料理屋にいた。用があったのだ。お前らの打ち合わせなど用とは呼ばない、といわれたらすいませんと穏やかに頭を下げて、「それでさ」と話を続けていたはずだ。マスクもせず。しかしわざとじゃないから直せない。 あれだけの騒動をたった四年で忘れてしまうのだから、世間は忘れっぽいという気はない。忘れているのはわたしだ。「ブルース・リー物語というのはどうですか」 とこのときイワモトがいったのは有名な話だ(どこで)。わたしは何度もこの話をしすぎている。しすぎて嘘のように思えてくるが嘘ではない。ただあまりにも「形」になりすぎている。ほんとうなのだが胡散臭い。 わたしはブルース・リー(李小龍)が通じない日が来るとは思ってなかった。今の若い人たちの中でいえば誰だろう「大谷翔平」だろうか。大谷翔平といっても通じない日が来ると思えますか。来ます。健全な世界ということだ。   何とかリーって誰ですか、といった人がいた。年寄りなら「カマトトか」となるが、 カマトト、が通じるとは思えない。知っているのに知らんふりして人の気を引く面倒なやつのことを昔はそう呼んだ。 若い人は当たり前に知らない。しかしそのときそのことに気がついているわけではないから、気がついていたとしてだから何だ。「いいやん」とか何とかわたしはいった。 ちなみにブルース・リーというのは俳優で武術家で、アクション映画で一世を風靡して、当時の子どもはみんな真似をした。「みんな」というと「わたしはしなかった」という人がいるが、げんにいるが、それは今はいい。YouTubeにもたくさんあるから興味がなくても見てみてください。空手ブームになり、今の総合格闘技につながったのも忘れられているが全部彼のせいだ。おかげ、か。世界を変えたという意味ではある意味ベケットより変えた。昔カナダへ公演に行ったとき、トロントからバスで数時間、高い建物の何もない田舎にホームステイをしたのだが、そこにいた子どもにブルース・リーの真似をしたらとても懐かれた。馬に乗せてくれた。 あれを書こうとはじめたのです。 わたしはまず子どものときから好きだったブルース・リーから離脱しなければならないなと考えた。小説にするならそうする必要がある。しかしそれはどういうことだろう。 わたしは何冊もブルース・リーの本を読んだ。骨格となるのは若くして、32で死んだ彼の生まれてから死ぬまでの軌跡だろう。だいたい知っていた。わたしが知っていたようなことは、好きな人なら知っている。そこをまた擦っても、仕方がないという前にわたしが書き進められないだろう。しかしやってみよう。止まるまで書いてみよう。 書いてみたがもちろんどうにもならなかった。好きなように書くことと好きなものを書くことは違う。好きは好きでも好きの場所が違う。どのどれがどの「好き」で、この「好き」がどっちの好きなのかやってみなければわからないのだが、おそらくわたしが拒否していたのだ。ここを読み間違えると「小説」は跳ねない。このことはいずれ書かれるだろう。...

『わたしハ強ク・歌ウ』制作振り返りノート 01

about 1 month ago

 「わたしの小説のやり方」と題してしばらくここへ書いていたが、わたしが小説をどう書こうとしているのか自分で確認したくて。でも書かなくなり、自分のことなんか別にいいや、となった。「いいね」をくれたり投げ銭をくれたりした人たちがいたが(これをこうして書く動悸はその人たちの存在もある)、読み返して、「もういいなこれ」と閉じたりして、そもそも頼まれたから書く、じゃなきゃ何もやろうとしない、自発的に書く人間ではない、ツイッター(今はX。まだいっている)ぐらいならやる、ことが露呈した。 そこへ『わたしハ強ク・歌ウ』の担当編集者イワモト(本の帯文を書いたもの)が「ノートに編集日誌を書け!」といってきた。 イワモトとの付き合いは長い。会った頃は「若い人」だったが、年数も経ち、今は別に若くない。髪型等若いときと同じ扮装だから、むしろくった歳が目立つ。 だいたいそもそも「編集日誌」は編集者であるイワモトの仕事で、わたしが「編集日誌」は変だ。わたしは編集していない。だいたいそうしたものが書かれようとしていたらしいこともわたしは知らなかったし、そもそも書かれようとしていたものがどんなものだったのかもわかっていない。 聞けば「編集日誌」は本の販促用に、本作りチームの表ボスである青柳菜摘(これが続けば後々登場する)に「イワモト、書け」とイワモトがいわれていたのだが、イワモトは今10冊の本を抱えていて、さすがに手が回らない!書けない!となった。話はそれで終わるのかと思いきや、山下さん書いてください!と今日(2025年4月21日)いってきた。何となく「わかった」と書きはじめてみたが書きつつ腑に落ちない。 しかし思い返してみるのは思い返してみると悪くはない。あのときイワモトくんは何ていってたっけ、どんなやり取りをしたっけ、というのは生きた人にはあまりやらない。死んだ人にはよくやる。しかし死んでからあれこれ思い返して「ありがとう」とかやるのはわたしは嫌いだ。 この本のはじまりはイワモトの依頼からはじまった。書くのに三年かかって、本にするのに一年かかったから、四年前だが四年前のいつ頃かは忘れた。 その何年も前からそうした話はしていた。イワモトとは『砂漠ダンス』と『鳥の会議』をやった。 なのにわたしは書かなかった。書けなかったのじゃなく、書かなかった。掲載されることになる「文藝」という文芸誌が、年四回の季刊誌だということがわたしをそうさせていた。春には書きます、で春は過ぎ、夏には書きます、秋には、冬には、それを四回いえば一年がすぎた。そして何年もすぎた。 どちらから、ここらで本気ではじめてみるか、となったかもおぼえていないが、食事をしようと???り、食事はよくしていたように思うがそんなことなかったかもしれない、わたしの家がある駅の近くの韓国料理屋で会った。金は向こうが会社の金で出すのだから食べたいものを食べたい。わたしは事前に、何か何でもいいから「こんなのはどうだ」というのを考えて来てくれないだろうか、とイワモトに提案していたはずだ。続きをみる

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